東京都議会議員の川松真一朗(墨田区選出・都議会自民党最年少)です。
訴え続けてきた輸送計画の重要性
さて、先日「 環状2号線が出来ない政治責任はどこに? 」と記事を書いたところ、大きな反響がありました。私自身、輸送は大会の成否の鍵を握ると2016年リオデジャネイロ大会後から言い続けています。それは、実際にリオ大会に当時現職だった相川博さんと行った時の経験から直感的に思ったのがきっかけです。たまたま、私達は当初帰国する予定だった便が出発直前にキャンセルになり2泊延泊になりました。このフライトキャンセルまでは、選手村やプレスセンターなどの視察があり、大会組織員会が許可した大会専用レーンを走れる車で移動していました。
五輪大会専用レーンの輸送力を肌で感じた
ところが、フライトキャンセル直後からは正に2人きりとなりJOC関係者や東京大会組織メンバーもいない中での移動で、唯一の頼りは市内を走るタクシーでした。しかしながら、このタクシーには通行パスがありません。前日まで、あっという間に市内を駆け抜けた生活から、大渋滞に呑まれる生活に変わったのです。相川さんと「これじゃあ時間の計算なんて出来ないな」と話していたのです。
リオデジャネイロよりも東京は比べものにならないほどに通常の交通量が多いものです。この都市機能を出来るだけ保った状態で20年大会の成功への運営の鍵は輸送計画の充実だと確信したのです。しかも、市内ではBRTという輸送力の高い大きなバスを重用しました。これも、大会成功の鍵を握ると信じていたのです。
環2の開通は共通の思いだったはず
その為に「環状2号線の活用」は絶対に外せないと東京都の行政に訴え続けたのです。それは、事の重大性を小池知事に説明すべきだという強い思いに基づいてです。小池知事は知事就任直後に大会組織員会の森会長からも「環2の開通」を何よりも優先してお願いされています。私はこの事を森会長から何度も伺っております。森会長とはオリンピック関係はもとより、ラグビーの会合でよくお会いします。その際に、環2の事を何度お話させて頂いた事か。この事や自身の体験もあって、都議会で誰も注目されていない頃から輸送計画をテーマに掲げじっくりと議論してきたのです。
その中で、私は市場関係者の皆様が本年の10月に豊洲市場開場をお決めなった事に最大限の敬意を表します。そもそも、使い慣れ親しんだ築地からの引越しには誰もに抵抗あるのは当たり前です。もともと市場移転は30年の時を使い議論に議論を重ねて「2016年11月7日」に豊洲市場移転を一度決められたのです。舛添都政下で「環状2号線開通へのリミット」にご理解を頂いた業界代表者の皆様がそれぞれ苦労を乗り越えて業界の合意形成に漕ぎつけたのです。自民党メンバーもそれぞれのチャンネルで汗をかいた事が「豊洲市場への」「環状2号線への」「オリンピック施設への」利権の為だと小池都政下で猛烈な批判を浴びる事に繋がりました。世の風の怖さを感じます。
さて、そのやっとの思いの合意形成も小池知事の独断で市場関係者を分断してしまいました。豊洲市場の構造も理解されないまま、地下ピットの存在と地下水の存在が注目されましたが、それでも小池知事が今のように「豊洲市場に行く」という決断を早くされていれば、市場業界の分断も環状2号線の完全開通もスムーズに出来ていたと思うのは私だけでしょうか。
市場関係者の皆様へは大会関係者が感謝の思い
そして、最終的には上記のように今年10月の移転をお決めくださったわけです。この事は前回のブログにも書きました環状2号線暫定開通の命運を握ったと言っても過言ではありません。市場の皆様が豊洲に引っ越しされた後に、直ぐ既存の建物を解体し地上部道路の工事に入ります。隅田川に架かる築地大橋と新大橋通りが繋がる事で臨海部と都心部が結ばれます。もし、この暫定開通も出来なければと思うとゾッとするのです。市場移転を阻止したいという方々は、私の前回のブログを断片的に取り上げて環状2号線が出来ないならば10月に豊洲へ移転しなくても良いじゃないかと私に言ってきます。この現状の認識共有も広く都民の皆様と進めていきたいと考えています。
平昌で分かってきた輸送計画の大切さ
折しも、韓国では平昌オリンピックが開催されています。開会式後のバスが中々到着せすに寒い中で耐え忍んだという報道も届きます。そして、東京2020年大会の肝は輸送だという声も聞かれるようになりました。環状2号線は政治責任を問う意味で私が持ち出しているだけで、輸送計画は各関係者が揃って既に取り組んでいます。私は過日の都議会特別委員会で触れましたが、2020年7月24日のオリンピック開会式時の課題はバスの待機場だと思っています。首都高速等を使って送り届けて、今度は選手村に戻るバスをどこに待機させて、どうやってスムーズに乗車・発進をしていくのか。周辺エリアでの公有地の解放を声を大にしてお願いしているところです。
東京が開催したいと国際オリンピック委員会に訴えて招致を勝ち取った2020年大会。そこには2016年大会招致時の国内選考や、全国行脚してのご協力のお願いを経て今に至ります。昨夜は韓国の地で、これまでを振り返り20年に向けての思いをそこにいた関係者で熱く語っていたら気づけば時間がだいぶ過ぎていました。
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