こんばんわ。
午前中に防災の日に関する事。東京都慰霊堂の事を書きました。
そして、先人達の当時の苦しさを感じました。
夕方になり、もう少し書いて参ります。
都立横網町公園は元々、陸軍の被服廠があったところで、関東大震災の年の初旬に被服廠跡地として買収され、震災当時には大きなスペースとなっていたのです。
そこで、お昼時の被災でしたが、多くの人々が被服廠後に行くぞと緊急事態の中で避難場所とし逃げてきました。特に、お昼でしたので火を使っていた家が多かったようで、地震後には火災があちらこちらで発生し、恐怖の炎は夕方近くになって被服廠後にも迫りました。つまり、避難所まるまるが炎に包まれてしまったのです。
そこで多数の犠牲者を偲び、この地で毎年9月1日は法要が行われてきたのです。
3月の東日本大震災でも、揺れそのものよりも後から迫ってきた大津波によって多くの命が失われました。
東京で私は地震の揺れを感じましたが、誰もがこの揺れは普通ではないと感じました。
そして、揺れる建造物を逃げる時に目にした人もいるかと思います。
墨田区内、スカイツリー北側の地区は木造密集地域ですので、瞬間的に倒壊・火災両方の心配をしましたが、甚大な被害にはなりませんでした。その一方で、阪神大震災の時には倒壊の家屋が目立っていました。
ですので、地震対策というと各々建造物の耐震、免震、制震が注目されがちです。しかし、もう少し地域で見た時には街づくりとして、火災対策等の2次災害3次災害をも想定した地震対策をしていかなければならないのではないでしょうか。
想定外の想定をしなくてはいけないと何度も私は墨田区長選挙の最中に言い続けました。
地震とは異なりますが、昨今の豪雨を見ては、墨田区を囲む河川の氾濫は大丈夫かなと気にかけています。かつて、テレビ朝日時代に大雨特集の番組をやったことがあり専門家と荒川沿いを隈なく歩き、危険地帯を見てきました。京都の舞鶴に行っては、どうやってバスの上に逃げたのか現場にも行き検証したりもしてきたのです。大きな河川がいきなり私たちを襲うとは想像しづらいですが、太平洋沿岸の大津波、安全神話のあった福島原発の事例を見ていても想像出来ない事にどう立ち向かうが地域防災として重要なのだろうと考えます。
防災の日の翌日ですが、身近な防災を考えてみませんか。
9月2日
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